孔子詩を刪り、善き者を録して法と為し、悪しき者を存して戒めと為す。
「此れ便是ち聖人の心、何ぞ等か渾厚正大なるや。」
爱曰:「存其善而去其恶,可也。何必存其戒?」
先生曰:「此非独《春秋》,凡圣人删述六经,皆是如此。如删诗,录其善者以为法,存其恶者以为戒。此便是圣人之心,何等浑厚正大!若但去其恶,使人无从鉴戒,则是出于私意,非圣人之心矣。」
又曰:「《诗》非孔子删之,鲁国原有之诗。孔子取而录之,以存殷鉴。郑卫之音,非尽去之也,存其可戒者以示后人耳。」
愛曰く。「善き者を存して悪しき者を去るは可なり。何ぞ必ずしも戒めを存するや。」
先生曰く。「此れ独り春秋のみにあらず。凡そ聖人の六経を刪述するは、皆此の如し。如くは詩を刪るに、善き者を録して法と為し、悪しき者を存して戒めと為す。此れ便是ち聖人の心、何ぞ等か渾厚正大なるや。若し只だ其の悪を去り、人をして鑒戒する所無からしめば、則ち是れ私意より出で、聖人の心に非ざるなり。」
又曰く。「詩は孔子之を刪るにあらず。魯国原有の詩なり。孔子取りて之を録し、以て殷鑒を存す。鄭衛の音は、之を尽く去るにあらず。其の戒むべき者を存して以て後人に示すのみ。」
良い教育は成功と失敗の両方を示す。何が間違いかを理解することは equally important。
「善き者を録して法と為し、悪しき者を存して戒めと為す。」
陽明の孔子刪詩の原則に対する理解:善は法として、悪は戒めとして保存。両方とも教育的価値がある。
「此れ便是ち聖人の心、何ぞ等か渾厚正大なるや。」
陽明は聖人の心胸を讚嘆する:善悪両面を坦蕩と示し、後人をして自ら判断せしめる。
「若し只だ其の悪を去り、人をして鑒戒する所無からしめば、則ち是れ私意より出で、聖人の心に非ざるなり。」
善だけを示して悪を示さないのは 私的な 意図——反面から学ぶ機会を奪う。聖人は悪を示すことを恐れない。