好色に一心なるは是れ逐物なり、主一にあらず。主一とは、専ら一つの天理を主とすること。
「主一とは専ら一つの天理を主とすることなり。」
陸澄問う。「読書すれば則ち一心に読書の上に在り、客を接すれば則ち一心に客を接するの上に在り。以て主一と為す可きや。」
先生曰く。「好色すれば則ち一心に好色の上に在り、好貨すれば則ち一心に好貨の上に在り。以て主一と為す可きや。是れ所謂逐物にて、主一にあらざるなり。主一とは専ら一つの天理を主とすることなり。」
陸澄問う。「読書すれば則ち一心に読書の上に在り、客を接すれば則ち一心に客を接するの上に在り。以て主一と為す可きや。」
先生曰く。「好色すれば則ち一心に好色の上に在り、好貨すれば則ち一心に好貨の上に在り。以て主一と為す可きや。是れ所謂逐物にて、主一にあらざるなり。主一とは専ら一つの天理を主とすることなり。」
現代心理学は「フロー」を称賛する。しかし陽明は注意を促す:不道徳な活動でのフローは 徳ではない。真の主一とは、深い集中が正しいものに向けられていること。
「好色に一心なるは是れ逐物なり、主一にあらず。」
陽明はこの反問で一般的な混乱を暴く:あらゆる対象への集中は主一と同じではない。真の主一は集中の強度ではなく、その対象——天理——に関するもの。美色や財貨に集中してもやはり「逐物」であり、聖人の教える「主一」ではない。
「主一とは専ら一つの天理を主とすることなり。」
これにより「主一」を心理状態(集中力)から道的方向(天理に向かう)へと再定義する。不道徳なことに集中することもできる——それは主一ではなく執着である。真の主一は、すべての状況において天理に揺るぎなく心を合わせること。