寧静に心を存するは未発之中と謂う可からず。人欲を去り天理を存するは、静かなる時も動く時も皆然り。
「人欲を去り天理を存するは、静かなる時も動く時も皆然り。」
澄問う。「喜怒哀楽未発之中は、如何なるものぞ。」
先生曰く。「此れ亦自ずから心に体認し出で来らしむべし。言語の能く喩う所にあらざるなり。延平は人未だ便ち下手の処有らんことを恐る。故に人をして時時刻刻私欲を去り天理を存せしむ。此れ便是ち未発之中なり。若し寧静の時に靠りて此の意思有らば、便ち喜静厭動の弊有り。」
澄問う。「喜怒哀楽未発之中は、如何なるものぞ。」
先生曰く。「此れ亦自ずから心に体認し出で来らしむべし。言語の能く喩う所にあらざるなり。延平は人未だ便ち下手の処有らんことを恐る。故に人をして時時刻刻私欲を去り天理を存せしむ。此れ便是ち未発之中なり。若し寧静の時に靠りて此の意思有らば、便ち喜静厭動の弊有り。」
真の平静は外的静寂に依存しない。忙しい中で内的平和を保つのが真の修養。静寂に逃避せず、動きの中に安定を見つけよ。
「人欲を去り天理を存するは、静かなる時も動く時も皆然り。」
陽明は「未発の中」を神秘的状態から実践的実践へ再定義する。静寂を通じて空虚で無感情な状態を達成しようとするのではない。私欲を去り天理を存する継続的実践——静かな瞬間と行動の 等しく適用される。
「寧静の時に靠りて此の意思有らば、喜静厭動の弊有り。」
これは精神的逃避への警告。一部の修行者は瞑想を使い日常の試練を逃避し、その回避を「平静」と呼ぶ。真の平静は外的静寂に依存しない——状況に関わらず持続する心の質。