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品目概述

「定慧」は仏教修行の二大核心法門である。「定」(三摩地)は心の集中と静寂を指し、「慧」(般若)は実相を照見する智慧を指す。伝統仏教では二者を別々に修習すべき二つの法門と見なしていた——まず定を修め、後に慧を発する。慧能は革新的な「定慧一体」説を提出し、定慧分離の伝統的枠組みを徹底的に打破した。

本品は篇幅が長くはないが、その思想的深さは般若品に劣らない。「定は慧の体、慧は定の用」という命題は、禅宗修行論の基石である。

一、定慧一体:灯と光の関係

経文

师が衆に示して云う。「善知識よ!我が此の法門は、定慧を以て本と為す。大衆迷うこと莫かれ。定慧は別なりと説くこと莫かれ。定慧は一体にして、二にあらず。定は是れ慧の体、慧は是れ定の用なり。即ち慧の時は定は慧に在り、即ち定の時は慧は定に在り。若し此の義を識れば、是れ即ち定慧等学なり。」

慧能は冒頭から明言する。定慧は二つのものではなく、同じものの二つの側面である。「定は慧の体」——定は慧の本体。「慧は定の用」——慧は定の作用。灯と光のようだ。灯があれば必ず光があり、光があれば必ず灯がある。灯と光は分離できない。

灯と光の比喩

善知識よ!定慧は如何なる等しきものか。灯光の如し。灯有れば即ち光あり、灯無ければ即ち暗し。灯は光の体、光は灯の用なり。名は二有りと雖も、体は本より同一なり。此の定慧の法も亦復此の如し。

慧能は「灯と光」の比喩を用いて定慧の関係を説明した。灯は光の本体であり、光は灯の作用である。名前は二つあるが、本体は一つ。定慧の関係もまた同様だ——定は慧の本体、慧は定の作用である。

二、定慧分離への批判

経文

善知識よ!定慧は如何なる等しきものか。灯光の如し。灯有れば即ち光あり、灯無ければ即ち暗し。灯は光の体、光は灯の用なり。名は二有りと雖も、体は本より同一なり。此の定慧の法も亦復此の如し。

慧能は当時の仏教界が定慧を分離していたことを批判した:

先ず定めて後に慧なり、先ず慧にして後に定なりと説く莫かれ。定慧各別なりと。此の見を作す者は、法に二相有り。口に善語を説けども、心中善ならず。空しく定慧有りと雖も、定慧等しからず。若し心口俱に善く、内外一如ならば、定慧即ち等し。

「先ず定めて後に慧なりと説く莫かれ」——まず定を修めてから慧を修めるとは言うな。定慧を二つの先后の步骤と見なせば、「法に二相有り」という分別に堕ちる。口に善を説いて心中善でなければ、定慧の名はあっても実はない。心口一如、内外一致してこそ、定慧は真に平等となる。

三、一行三昧:定慧の実践

経文

善知識よ!一行三昧とは、一切の処に於いて行住坐卧、常に一直心を行う是れなり。『浄名経』に云う。直心是れ道場、直心是れ浄土と。心に諂曲を行い、口に只だ直を説く莫かれ。口に一行三昧を説けども、直心を行ぜず。但だ直心を行い、一切の法に於いて執著有ること莫れ。

慧能は「一行三昧」(ekavyūha-samādhi)を「一切の処に於いて行住坐卧、常に一直心を行う」と再定義した。「直心」とは単純な率直さではなく、心が諂曲せず、執着せず、分別しないことだ。「直心是れ道場、直心是れ浄土」——真の修行道場と浄土は、まさに平直な心中にある。

善知識よ!道は須く通流すべし。何ぞ却って滞らん。心法に住せざれば、道は即ち通流す。心を住めて定に入れば、即ち浄縛と名く。若し不動を修する者は、一切の人過患を見ざれば、是れ性不動なり。迷人自ら身不動にして、口を開けば便ち他人の是非長短好悪を説く。道に违背す。

「道は須く通流すべし」——道(覚悟の路)は流通無碍であるべきで、停滞すべきではない。心が入定に執着すれば、かえって「浄」に縛られる。真の「不動」は身体が動かないのではなく、他人の過失を見ない——これこそが自性本不動揺である。

四、不動と見性

善知識よ!又人有り坐を教え、心を看て浄を観じ、不動不起し、此より功を置く。迷人会せず、便ち執して顛となる。此の如き者衆し。是の如く相教ゆるが故に、大いに錯ると知るべし。

慧能は特に「心を看て浄を観じ、不動不起」する坐禅の方法を批判した。この方法は人に座って自分の心を見、清浄を観察し、身体を動かさないことを修行とする。慧能はこれを「迷人」の做法と見なした——身体の不動を心性の不動と取り違え、結果としてかえって顚倒してしまう。

真の禅定は枯坐不動ではなく、一切の境遇の中に智慧の覚照を保つことだ。真の智慧は思弁分析ではなく、定から自然に湧き出る直観的洞察である。

五、本品の要義

定慧品の核心思想は以下のように概括できる:

  1. 定慧一体 — 定と慧は二つのものではなく、同一本体の二つの側面である
  2. 灯と光 — 定は灯の如く、慧は光の如し。灯有れば必ず光あり、光有れば必ず灯あり
  3. 一行三昧 — 行住坐卧の中に常に直心を行うことが真の禅定である
  4. 道は須く通流すべし — 修行は形式に執着すべきではない。心法に住せざるが真の修行
  5. 不動は心にあり — 真の不動は他人の過失を見ないこと。身体が動かないことではない

これらの思想は当代のマインドフルネス運動に重要な示唆を与える。集中と覚察は本来一体であり、別々に訓練する必要はない。日常生活の中で覚知を保つことこそ、最良の禅修である。

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延伸読書

→ 般若品第二
→ 坐禅品第五
→ 定慧一体:哲学的解読
→ マインドフルネスとメンタルヘルス