朱子の格物の訓、未だ免れず牽合附会、聖人の旨に非ず。
「朱子の格物の訓、未だ免れず牽合附会、聖人の旨に非ず。」
爱问:「格物之说,如先生所教,明白简易,人人见得。朱子聪明,何故反有不知?」
先生曰:「朱子格物之训,未免牵合附会,非圣人之旨。朱子尝以『格物』为『穷至事物之理』,又训『格』为『至』。如以『至』训,则于『致知』之义不通。盖『致知』者,致吾心之良知也。若以『至物』为义,则致知亦当云『至知』矣。且即以穷理言之,理在心而不在物。若穷事物之理,岂能穷得尽?天下事物无穷,安能一一穷得?」
愛問う。「格物の説、先生の教うる所の如く、明白簡易にして、人皆見得たり。朱子聡明なるが故に、何ぞ反って知らざるや。」
先生曰く。「朱子の格物の訓、未だ免れず牽合附会、聖人の旨に非ず。朱子嘗て『格物』を『事物の理を窮至す』と為し、又『格』を『至』と訓ず。若し『至』を以て訓と為さば、則ち『致知』の義に不通なり。蓋し致知とは吾が心の良知を致すなり。若し『至物』を以て義と為さば、則ち致知も亦当に『至知』と云うべし。且つ理を窮むるを以て之を言わば、理は心に在りて物に在らず。若し事物の理を窮めんと欲せば、豈能く尽くし得んや。天下の事物窮り無し、安んぞ能く一一に窮め尽くさん。」
情報過多の時代に、朱子の「事物の理を窮める」アプローチは分析麻痺を引き起こす可能性がある。陽明は reminders:心の良知から始め、本当に重要なことを学ぶ——すべてを学ぼうとしないこと。
「朱子は嘗て『格物』を『事物の理を窮至す』と為し、又『格』を『至』と訓ず。」
陽明は訓詁の角度から朱子を批判する:「格」が「至」(事物に到達する)なら、「格物」は「物に行く」ことになるが、「致知」も「至知」と言うべきで、意味が通じない。二つの句は「格」と「致」を並行して使うべきである。
「理は心に在りて物に在らず。」
これは陽明と朱子の根本的な相違点である。朱子は理が客観的に事物に存在すると主張し、陽明は理は心にあると主張する。これは単なる哲学的違いではなく、完全に異なる修養方法につながる。